つながるー関わるきっかけの発見ー
  • トップ
  • つながる
  • 【みんなの思い出を分かち合う】「法政のきおくギャラリー」

【みんなの思い出を分かち合う】「法政のきおくギャラリー」



8月1日~9月20日の間、法政ファンの皆さまから「法政のきおく」を募集いたしました。本ページにて、法政ファンの皆様に共有いたします。

法政ファンの皆さま同士が、法政にまつわるきおくを共有することを通して、新たな気付きや発見、つながりを作りだす機会にしたいと考えています!


エピソード1 ほーさん さんより

昭和53年1月の卒業試験。正門には受験者をチェックするためのテントが張られ、入構するには学生証の提示が求められました。教室に入りしばらくすると、外から大きな声が聞こえてきました。廊下に出て外を見ると、ヘルメットのあご紐に手拭いをマスクのようにかけ、手には角材を持ち大勢の学生が蛇行しながら、職員の制止も無視し、シュプレヒコールを上げていました。大学はロックアウトとなり、一般学生は速やかに大学を退去することになったのですが、退去する前に学校の門は閉鎖されてしまいました。当時の法政大学の塀は高く、仕方なく学生会館と塀の隙間から歩道に飛び降りました。外濠公園には、ジュラルミンの盾を持った機動隊が周りを囲み、構内からの投石をかわしながら帰宅しました。まもなく卒業試験は中止になり、レポートを提出し卒業しました。

エピソード2「箱根駅伝」しあわせうさぎ さんより

1月産まれの子供(現在15歳)がお腹の中にいる頃から、毎年、沿道で箱根駅伝を応援しています。そんな環境で、子供も箱根駅伝マニアになり、陸上部に入部することに。オレンジのタオル、手袋を振りかざし、法政大学の横断幕付近で、みんなで楽しみながら応援しているお正月の風物詩です。

エピソード3原水禁運動を支持する法大通教生の会」の思い出

私が初めて参加した1961年の夏のスクーリングの際、「原水禁世界大会に通教生から代表を送ろう」と大学玄関入り口や各教室をまわっての募金活動がされていました。就職したばかりで、60年安保闘争によって社会問題に関心を持ち始めた私にとって、新鮮で驚きでしたが、その時は、話を聞いただけした。
翌年の1962年の夏のスクーリングから仲間に入れてもらい、活動を手伝うようになりました。連日、昼休に学生会館の大内山前の広場に集まり、情報交換や相談、大学玄関前で、原水禁世界大会への派遣募金を集めたり、署名活動をしました。みんな職場や周囲の理解の上に参加しているスクーリングですから授業にまじめに出席し、単位をとりながらの活動です。大変でしたが、充実した毎日でした。
残っている資料によると「原水禁運動を支持する法大通教生の会」は、1962年8月25日に「この会は、核実験と戦争を阻止するため学習活動深める」を目的とした規約を定め、大学当局に届けていますので、正式に発足したのは、この日だと思います。会員は40名程。しかし、誰が中心になって、どういう経過で発足したかは、何人かの先輩にお聞きしたのですが、よく分かりません。法政大学教職員組合の援助があったのは、資料で明らかなので、通信教育部の職員の協力があったのではないでしょうか。その後の活動も同様です。そして、活動が継続出来たのは、東京の通年スクーリングの仲間たちの支えがあったのではないかと思います。
 当初は、スクーリング期間中の原水禁世界大会に通教生から原水禁大会に代表を送り、その報告会を開くことと、付随しての講演会の開催が主な活動だったようです。このようなサークルは、中央,慶応、玉川、日本女子など当時の他の大学の通信教育部には、無かったようですので、貴重な存在だったのではないでしょうか。
 1963年の夏は、前半は原水禁世界大会への代表派遣活動、後半は、横田基地巡りの参加者募集活動。初めての取組みでしたが、バス2台、70名程の参加者でした。横田基地では、日本山妙法寺の佐藤行通さんから説明を受け、世界大会にインドネシアから参加していた代表者にお会いしました。インドネシアの大弾圧事件の前のことです。帰りに多摩湖へ寄り、湖畔の公園でフォークダンスを楽しみました。
 1964年の夏も原水禁世界大会への代表派遣活動と横須賀基地巡りに取り組み、これもバス2台で成功出来ました。帰りに三浦半島で遊びました。
 私は、8年かけて卒業したので、5年目の夏からは、1週間だけの出席のため活動には参加できず、後輩のみなさんと知り合いになるだけでしたが、活動の状況を知ることは出来ました。
1965年8月24日に「法政大学通教生平和を守る会」に名称を変更し、活動の幅を広げました。会員は、40名程。基地巡りの取組みは続けられ、横田基地、百里基等へ行ったようです。会は、1970年頃までは、活動していたようです。
私は、この会での活動に学び、その後、労働運動、平和運動に取り組んできました。
共に活動した仲間には、市長、県会議員、市会議員、大学教授、小学校長、人権や弾圧事件の裁判闘争当事者など多彩な人々がいます。
 1994年5月、連絡取れる仲間に呼びかけて同窓会として、「法政大学通信教育生平和を守る会」を発足させ、2019年まで、時々集い、交流してきました。最近は、亡くなる方、闘病中の方が増え、寂しくなりましたが、私の人生に大きな影響を与えてくれたこの会に感謝しています。

 なお、私のわからなかった点について、情報がある方は教えてください。

エピソード4通信教育部のスクーリングの思い出」 イガラシトモさんより

法政大学には、通信教育課程があります。 華やかな通学生とは違い地味でストイックな学生生活でしたが、 懐かしい思い出はたくさんあります。 あまり知られていないかも知れませんが、 通信教育課程といえども、修得単位の1/3近くは通学して修得します。 夏休みの夏季スクーリング、一年間を通しての夜間スクーリング、体育の授業、外国語の授業、情報処理実習、卒論の指導、単位修得試験、各種説明会、テキストの購入、そして卒業式など、何度も市ヶ谷キャンパスには足を運びました。 苦学している仲間との交流もありました。老若男女問わずいろいろな世代、業界の方々とお知り合いにもなりました。 どれも懐かしい思い出ばかりです。 今は、遠方から通わずとも、ほとんどインターネットのシステムで単位が修得できるようですが、通学することもそれなりに楽しみでした。